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日常の(酒場の)椅子
4月中旬から5月末くらいにかけて、死ぬほど原稿を書いているはずであったのだが、著者さんや編集者さんの都合などが色々と重なって平常運転のままゴールデンウィークを迎えた。

どちらかといえば、これから忙しくなるより、今忙しいほうがよかったのだが、こればかりはいかんともしがたく、どこに出かけるでもないが、まるっきり仕事をしない日が2・3日あるゆるゆるとした連休(所詮個人事業主は毎日が連休で毎日が出勤日なのだがそれはさておき)を過ごすことになった。

そして、一般的には連休の最終日となるこどもの日を迎えることに。「今日も休みで日曜日まで連休です」という方には心よりお祝い申し上げます。この日はコミティアという年に4・5回くらい(?)ある、二次創作抜きのオリジナルのみの同人誌即売会の開催日であった。漫画は好きだが同人誌まで手を出すとキリがないので日頃は手を出さずにいるジャンルなのだけれど、北海道在住の漫画家・根本尚先生と知り合う機会があり、根本先生がほぼ毎回コミティアに出展されているため、何年か前から、根本先生が出る回全て、ではないのだが行くようになった。

会場である東京ビッグサイトは我が家から見れば中途半端な位置にあり、電車を使っても40分はかかるので歩いて行く。自転車だと本気でこげば10分台、ゆるゆるこげば20分ちょっと、歩くと1時間はかからない、といったところ。今日はチェルシーボロ『チェルシーボロ』とFLA$HBACKS『FL$8KS』を続けて聴いて、ちょうど後者の最終曲でビッグサイトの建物内に入ったので50分そこらというところか。

半年に1回くらいのペースで見ると色々と興味深い変化があるので、基本的には歩いて行くのだが、今回は特に「豊洲市場、めっちゃできてきてる!」という感じ(秋にはオープンするのだから当たり前の話ではある)で驚いた。前に歩いたのがおそらく去年の秋くらいで、その頃には全然なかった気がするあれやこれやが建ちまくっていた。


知人がコミティアに来ることを事前に知っていたので、タイミングが合えば新宿に出て食事でもと思っていたのだが、すでに会場を出て電車に乗っていたらしくまた歩いて帰ることに。

家まであと3分そこらというところで、たまに行く飲み屋が営業していた。元々今日は仕事をしなくてもいいか、と思っていたので入ることに(元々土日も当たり前のようにやっている店で可能性はゼロではないと思い前を通るルートを選んでいたフシもある)。

昔は旅行客が多い日ほど働くことになる東京駅でアルバイトをしていたし、その後も暦に準じるキチンとした社会人になれなかったので(その代わりに平日に地方に滞在して飲み食いしたりできているので文句はないけど)、こんな休日、というより祝日っぽい祝日は人生初なのではないか――と思いながらビールとそら豆でやっていると、生きる歓びのようなものがじんわりと感じられた。何もしないで寝っ転がってるだけの日は他にもあるけど、それは平日でもできちゃう人生なので、コミティアなどの非日常イベントなどの効果か、とにかく「祝日っぽい!」と感じたのである。

そして、あまりお行儀はよくないのだが、食べ物がなくなって注文して待っている合間合間に、山川直人先生のブースで買った『日常の椅子』を取り出して読み進めたことで、その時点でも地味ながら特別な一日であった、日付変わって昨日が忘れ難い一日になった。

というか、忘れ難いと思ってはいるのだが、自称若年性痴呆気味の俺はこの感覚すらそのうち忘れてしまうだろうな、という懸念がアリアリなのでこんな日記を書いているというわけ。

『日常の椅子』は菅原克己という詩人の詩をベースにした作品であった。山川先生もあとがきにそのように記しているのだが、俺はそんな次元ではない、と思うくらいに詩歌を解する能力と心を持ち合わせていないと自負している。しかしそんな自分でも、山川先生の漫画によって「詩や俳句や短歌で感動する人は文字だけを読んでこのような情景を思い浮かべているんだろうなあ」と冒頭の「あいびき」の時点で心から感じる素晴らしい作品であったのだが、3篇めの「ヒバリとニワトリの鳴くまで」を読んだときに近年でも記憶にないような、稲妻に打たれたかのような――とはまさにこのこと、といった感じの衝撃に貫かれた。正直泣くのではないか、とも思ったのだが、涙はまったく出ずにただただ体の奥のほうが小刻みに震えるような感覚であった。

“ぼくはささいなことが好きだ/くらしの中で/詩が静かに/不意打ちのようにやってくるというのは/ほんとうだ”

という件を読んだとき、そして残り1ページを読んだとき、「この件の前後に描かれているものは、日頃自分が見て感じている何か、そして今日、家からビッグサイトまで、ビッグサイトから家までの道行きの最中に見たものと、それを見て感じた何かのことだ」と感じ、それに名前を与えられたような気がして、安っぽい表現になってしまうのがただただ感動した。

で、その名前が結局のところ、“愛”であるとか“人生”であるとか“詩”であるとかいうものであったりするのだが、まあそれは仕様のないことなのだろうと思う。おそらくここでもっと分かりやすい形で明確な名前がついてしまうのであれば、我々の人生はもっと味気ないものになるだろうし、詩人は詩を書く必要がなくなる。詩人が詩を書く必要のない世界のほうがいい世界じゃないの? と問われると「もしかしたらそうかもしれない」と思わないでもないのだが。

ともあれ、そのような感懐は結局のところ、今の自分がある程度平和な生活を送れているからだと自分でも思っている。今後いくらでもその名前、ないしは名前の中身や定義付けが変わっていくことは考えられる。というより、考えられる、どころかそれが普通のことで、「考えられる」としておきたいのは、おそらく現状が最もちょうどよいという自覚があるからなのだろう。

だがしかし、それでも今このとき、自分が“くらしの中”にある“ささいなこと”をこよなく愛していることは紛れもない事実であり、そのことを誇らしく思うことをここに記録しておくべきだろうとは思ったのだ。

いつかこれを見返して、当時の自分を鼻で笑うような未来もあるのかもしれない。そして、それもまた一つの詩であるのだろうし、創作ではそのような筋を好むところも多分にある俺だけれども、個人的にはそうでなければいいなあ、とは思っている。
はてなブックマーク - 日常の(酒場の)椅子 | 06:04 | 戯言 | comments(0) | trackbacks(0)
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