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言葉は心を越えない
さっさと寝るべきなのだが、バーっと書きつけておく。トリートメント度合は皆無なので通しで読むと変な感じかも。 


仕事の打ち合わせであるキャリアの長い音楽家の方とお話ししていて、SNSなどはやる気がしない、「今日ライブです、みんな来てね」とかつぶやかなきゃいけない理由が分からない、といった話になって、僕もリスナー側からそういう現象に思うところが色々あったので本題を逸れてそういった諸々について長話してしまった。 

まあこれは非常に難しいところであって、その方はそうやって音楽で生活できているからいいのだけれど、言葉は悪いがお客さんに媚を売ったり、サービスしたりすることを意識して行わないと生活できない音楽家の方もいるかもしれない。 

ただ、やる側の意識は別にしても、客側の意識も最近いろんな意味でメルトダウンしちゃってるのではないかと個人的には思っている。 


本来音楽に限らず表現を受け取るということは極めて個人的で一方通行の体験であったはずだ。表現者から放たれる矢を、我々はただ的として受け止めるだけだった。そしてある傷は跡形もなく治り、またある傷は一生消えない跡になりその後の自分の人生を良くも悪くも変えてしまう。 

その有り様を大きく変えたのはインターネットで、まず同好の士を簡単に見つけることができて交流することができるようになった。膿んだ傷からしか生まれない美しさのようなものもあるとは思うのだが、このことによって変に傷をこじらせることがなくなったのは基本的にはいいことだと思う。 

しかしその次の段階として、現在のように簡単に表現者本人にネット上でコネクトできるようになってしまった。この状況は、個人的にあまり好ましいものだとは思わない。 

SNSが表現者と受け手の間で、何某かの感情を双方向性のあるものにしたのは紛れも無い事実だが、あくまでも表現者から、その表現を受け取る体験そのものはこれまで通りに一方通行だ。これは人類が滅亡するまで動かしようのない構造だと思う。しかし、まるでその特別な行為すらもインタラクティブなものになってしまったように錯覚している人間があまりにも多いのではないだろうか。 

もちろん、件の音楽家のように全ての表現者がSNSを苦手に思っているわけではないし、むしろその存在に救われている人も多いのは理解している。ファンから送られた言葉に心から喜びを覚えることもあるだろう。しかしそれは、ファンが表現者から受け取った感情とは決して同じものではないはずだ。ステージがあまりにも違う。少なくとも、そのファンの傷跡が一生残るほどのものであるのなら。 

表現はコミュニケーションだが、コミュニケーションは表現ではない(例外もあるとは思うが)。それを理解せずに表現者の土俵に軽々しく踏み込む行為を僕は好まない。コミュニケーションを広げて、仲間を増やす目的で行われているような音楽のシーンなんかも存在するとは思うのだけれど、全ての音楽家がそのような目的でやっているわけではないし、むしろ音楽でしか世界と繋がれないような人だからこそいっぱしの音楽家になっていたりするわけで、そういう人にSNSやライブハウスで気軽に話しかけたりするのは何か違う気がする(もちろんそれを楽しんでいる表現者に対しては全く問題ないのだけれど)。 

特に実際のライブハウスなどでは、お客さんを前に文句を言ったりするのは難しいから、むしろ音楽家より客のほうが立場が上になってしまいがちだったりする。そういう状況で話すのはフェアじゃないと僕は思ってしまうのだ。不満に思ったら不満を表明できるような、音楽家が上の立場での対話であればいいのだけれど、まあそんな機会はないだろうし、別に一生なくていいのだ。その音楽家にとって最も重要なものは、すでにその音楽を聴くという形で受け取っているのだから。 


僕には本当に理解できないのだが、世間の人々は、自分の好きな表現をしている人と、友達になりたいのだろうか。
はてなブックマーク - 言葉は心を越えない | 02:46 | 戯言 | comments(0) | trackbacks(0)
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