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ちょっとそこまで
小林繁が死んだ。まだ57歳。

柴田勝久も桑田のご父上も亡くなっているし、昨日今日とどれだけの人が死んでいるやら、という話だし、それこそその中には生まれたばかりだというのに死んでしまった人もいるのだろうけど、やはり早すぎるというのが印象だ。ユニフォームを着ている状態で、というのもあるのだろうけど。


僕の父親は大学までずっと野球をやっていて、甲子園に出たとか大層な実績はないのだけれど、若い身空で毎日朝から晩まで野球漬けというのは、本当にある意味馬鹿にしかできねえ、ってくらい過酷なものなので、たとえば趣味レベルの草野球チームに加入したなら、1人次元が違う、っていう程度ではあったと思う。で、父は小林が結構好きだった。他にも江夏とかONとか、まあ要するに、トップレベルの人は皆好きだったのだけれど。

それでふと、思い出したのが、高一の時に父と野球を見に行ったことだった。あまり関係ないことのように思われるだろうが、実際にあまり関係はない(苦笑)。ただ、故人はなかなかいいコーチだった気がするなあ(このような書き方になるのは、単に近年は野球をちゃんと追っていないからで、故人を悪く言う意図は一切ございません。あしからず)と、思ったとき、ふと父のことが思い出されたのだ。

なぜかといえば、僕が小五か六くらいのときから躁鬱になって、最終的に仕事をまったくできなくなった父が、野球に関して異常に鋭い観察眼をキープしていたからで、その日はドームに巨人×広島を見に行ったのだけれど、前田智徳の打撃練習の際の手首の使い方なんかをいちいち僕に解説してきたのだけれど、それが何とも理路整然として的確なことを言っているのが野球音痴の僕にもよく分かった。

おそらく人生で父親の言葉に目から鱗となったのはこの時限りに違いなく、その時何を言っていたかははっきりと覚えていないというのに、父親が輝いていた記憶として、その時の感懐は今でも僕の中にはっきりと残っている。特にその頃は、仕事どころか社会生活をまともに送れる状態ではなかったので、殊更鮮やかな記憶として残っているのだろう――などと書いてみたものの、殊更どころか、本当に、良い記憶はそれだけ、とは言わないが、父の言葉に感心させられたのは、やはりその時だけだった気がする。

その頃の父は、最早トラジコメディを通り越して単なるコメディ状態で、母と姉に完全に拒絶されているのは身に沁みて分かっていたのか、とにかく僕の歓心を買おうと色々しょうもないことをやっていた。ある時、プロ野球のチケットがあれば僕が喜ぶと思ったようで、すでに他紙をとっているのに、母が仕事に出て、僕と姉が学校に行っている間に、契約したら巨人戦のチケットをもらえるというので、勝手に勧誘に乗って契約してしまっていたということがあった。自分で言うのもなんだけど、これはなかなかに素晴らしいエピソードだと思う(笑)。もうやる方は完全に足を洗ってサッカー部だった中学の時分に、突然新しいグローブを買ってきたこともあった。


そんなことを考えていて、「野球に関してだけは人並み以上に光るものがあったなあ」と、ふと、何の気なしに思った。そして直後に、「いや、それは違うんじゃないか」と思った。

僕はまともに会話を交わすこともろくにないけど、母のことは非常に尊敬している。単に女手1つで子供2人とこぶ1個抱えてやってきたという「親」としての側面を抜きにして、単にいち人間として凄いと思っている。

ただ、そうはっきりと思えるようになったのはせいぜい10代後半になってのことだ。母は今でも僕に小学生に対するようなことを当たり前のように言ったりするような人で、まあ僕が本当にしょうもない人生を送っているので、そう言われるのはしょうがないとも言えるので、あまり適切ではないのだけれど、分かりやすい言葉なので使わせてもらえば、子離れができていない人だ。まだ小学校くらいの頃は、姉もいたからよかったのだが、父の病状が悪化するに従って、そちらの親子関係は友人のような共闘関係になっていき、贔屓目抜きにしても、レベルはどっこいどっこいだとしか僕には思えないのだけれど、次第にまともなことはともかくとして、言われても困惑するしかないような、しょうもないお小言をいただくのは僕ばかりになっていった。

そんなわけで、親としては、正直評価は一枚下がるのだけれど、しかしこの人はかなりの知性の持ち主ではないか――ということが、僕が少しはまともにものを考えられるようになってくるに従い、「親」ではない「人間」としての側面が見えるようになってきたのだ。

つまり、その理屈を援用すれば、僕が幼少期にもっと聡明であるか(三島由紀夫の9歳の時のように・笑)、あるいは父の発症があとせめて5・6年遅ければ、人間としての、父の光るところにいくつか触れ、それを記憶として留めておくことができたはずだ――と考え、それは違うと思ったのである。


そのことに思いを巡らせ、一瞬、ひどく悲しい気分になった。ただ、すぐに、そうではないのだろうと思い直した。だから、人生とはかくも美しいのだと。

まともに人とコミュニケートができなくなっても、何万、あるいは何十万と反復したであろう野球に関することは脳内に定着しているのに、結婚し子供をもうけるまでになった愛情は変容してしまう。しかし、そうやって数え切れない人たちと、ほんの少しだけすれ違い続けるからこそ、古代、たまたまずっと近くにあっただけの星と星が、線で結ばれ名前と物語が託されたように、近しい軌道を辿る人と人の間には物語が生まれるのだ。

以前、 この日記で僕の夜景愛を長ったらしく吐露したが、ようやく分かった。僕は夜景というものに、人間と人間が結ぶ地上の星座を見ていたのだ。みゆき姐さんが『地上の星』をリリースしたのはもう10年近く前だというのに。


とはいえ、一度軌道上から離れてしまっても、生きてさえいればまたどこかですれ違う可能性もあるわけで、やはり、死というのは、実に残酷なことだと思う。

小林氏や柴田氏、桑田泰次氏、ニュースになることもなく、僕が一度もその光に触れることなく逝ってしまったたくさんの方々、1日遅くなってしまいましたが、15年前に震災に遭われ亡くなった方々のご冥福をお祈り申し上げます。
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