ポケットの中(が原因)の戦争 4
 体育館にいたほぼ全ての大人たちにこんにゃくが行き渡り、食べ終わってから、男は未来の世界についての話を始めた。言っていることは理解できるけど、それでも理解できなかった。22世紀?冗談だろ?なんで覚めてくれないんだ、この悪夢は。これが現実なら、現実から逃げ出したい気分だった。男は話し終えた後、「質問があれば全て受け付けたい。何か聞きたいことがある方は、静粛に挙手をお願いしたい」と言った。

 質疑応答のコーナーの結論を要約するとこうだ。

 今後奴らが行う活動に僕たちが巻き込まれることはない。
 僕たちはこれまで通りに普通の生活を続けていけばいい。
 奴らやドラエモンの存在・活動は一切漏らすことは許されない。
 それをした場合には存在を消されることになる。
 それをすることのみを監視することの出来る道具でここにいる全員が今後管理下に置かれることになるが、カメラのようなものではなくプライバシーが一切傷つけられることはない。
 ノビノビタはドラエモンの本来の目的を知らないので、ドラエモンが彼と共に普通の日常を過ごすために、ドラエモンが町の中を外出することがあるが、ここにいる人以外の目に入ることがないように、ノビノビタだけはカメラで監視されている。

 監視されることに対する異論は噴出したけど、結局やつらに黙らさせられることになった。その道具は禁止ワードを設定して、ターゲットに指定した人間が禁止ワードに係わる事象を伝えようとすると、それがすぐに奴らの元に報告されるというもので、実際にその様子を奴らが実践して見せたのだけれど、文字を書いたりしても報告される様を見て、それはカメラじゃないのか、とたくさんの人が奴らに詰め寄った。けれど、結局奴らの22世紀のテクノロジーを説明するのは不可能だという言い分を信じるしかなかった。実際に理解できるはずがないのだし、仮に、もしあの道具がカメラだったところで、僕たちにはもう、他の選択肢など残されていないのは間違いなかったからだ。死ぬことを選ばない限りは、僕たちは風呂に入ればトイレもするし、独り言で誰かの悪口だって言いながら、生きていくしかないのだから。

 そして最後に、僕の同級生であるハスミサヤカが手を挙げた。
「質問してもいいですか?」
「どうぞ」
「存在を消される、というのはどういうことなのでしょうか?殺されるということですか?」
「殺されるというのとは少し違う。存在そのものが、元からなかったことになるのだ。」
「なかったこと、ですか?」
「そうだ。禁止ワードを他人に伝えようとする人間を発見したら、私はソノウソホントを付けてこう言う。『○○の存在は消える』と。すると、瞬時にその人間はこの世から消え去り、その人間に関する記憶や、存在を示す物もこの世から消え去ってしまうのだ」
 男はあらかじめ用意していたのか、新聞を懐から出して広げ、ある記事を指差した。
「多くの皆さんは、この事件をご存知だろう。2ヶ月前に起きた1家6人が惨殺された事件だ。この犯人は未だ捕まっていない」
 男はくちばしを口に付けた。
「この事件の犯人の存在は消える。そして、ソノウソホントによって消えたことを、ここにいる人間だけが知っている」
 くちばしを外して男は続けた。
「これで、皆さんは今起きたことを知っているが、世界はすでに犯人が元からいなかった世界になっているのだ。新聞をもう一度良く見て欲しい」
 もう、驚く感情すら起こらなかった。さっきまで、事件を報じていたはずの紙面が、『特集 パンダが立った!』になっているのだ。誰もが最早驚きの声を上げることもなく押し黙っていた。
「おわかりいただけたかな?お嬢さん」
「ありがとうございました。それと、もう1つ伺ってもいいですか?」
「どうぞ」
 体育館中の視線を集めても身じろぎもせず、サヤカは言った。
「そのくちばしを付けて言ったことはどんなことでも実現されるんですよね?」
「ああ、どんなことでも、だ。正直なところ、これは22世紀でも信じられない力で、セワシ博士のとある実験中に偶然に発見されてしまったものなのだ。こんな道具があることを知っているのは22世紀でも数えるほどしかいない」

 すでに2人の声以外は沈黙が支配している体育館が、サヤカのその質問によって全てが凍りついたかのような静寂に覆われた。
「じゃあ、どうしてそれを付けて『世界が平和になる』と言わないんですか?」
はてなブックマーク - ポケットの中(が原因)の戦争 4 | 16:10 | フィクション | comments(0) | trackbacks(1)
失業日記
 仕事を失ってしまった。

 それもこれも、プレーオフ第1シリーズで西武が敗退したからである。隣ではナインやスタッフがビールかけのバカ騒ぎに興じているが俺の心は冷え切っている。


 きっかけはとある一言だった。

「西武のさあ…、涌井いるじゃない?」
「ああ、いますね」
「あいつって19歳でしょ?」
「そうですね」
「優勝したらビールかけどうするのかなあ」
「そういやあ、そうですね」
「参加するのかなあ」
「するんじゃないですか。確か、皮膚から吸収しちゃう分には罪に問われなかった気がするんですけど」
「でもさあ、皆ハメ外してるわけじゃない」
「そうですね」
「勢い余って口から飲ませようとするバカとかいると思うんだよね」
「ああ」
「カブレラとかさ」
「ああ」
「ベネズエラじゃあ6歳から飲んでるんだよとか言ってさ。ちょっと、今笑うとこよ」
「ははは」
「まあ冗談はさておき、可能性としては無きにしも非ずだよね」
「そうですね」
「長谷川ちゃん野鳥の会やってたんだよね」
「そうですね」
「長谷川ちゃん首になりたくないでしょ」
「そりゃあ勿論」
「このままじゃあオフに自由契約にされるの聞いてるよね」
「はい」
「ちょっと西武が優勝したらさあ、祝勝会忍び込んで涌井ずっとチェックしといてよ。前途ある若者の将来を奪うのは忍びないけどさあ、西武とやる時涌井がいるといないじゃあ大違いでしょ」
「そうですね」
「それでもし涌井の飲酒シーンをフライデーしたら来期も契約するように俺がゴリ押ししてあげるからさあ。どう?」
「やります」
「オッケー。じゃあとりあえず西武が優勝することを祈っておかないとねー。あははははー」
「そうですね」


 初戦の激的な松坂の完封勝利で完全に流れをものにしたかのように思われた西武が、ソフトバンクに負けたのは周知の通りだ。

 とりあえず、今後の身の振り方を考えなければいけない。もうこんなヤクザな業界からは足を洗って真っ当な職に就くべきなんだろうか。しかし、俺に野球以外の何が出来るのか、といえばそれも甚だ疑問であると言わざるを得ない。

 思わず溜息が漏れる。せめてダルビッシュが12月生まれだったら…。
はてなブックマーク - 失業日記 | 00:56 | フィクション | comments(0) | trackbacks(2)
ポケットの中(が原因)の戦争 3
 男は子供たちがこんにゃくを皆食べ終わったのを確認して、再び話し始めた。くちばしは外している。
「子供たちが食べたこんにゃくは、他人の話す内容が理解できないものでも、それを食べれば頭の中で翻訳されて理解できるようになるものだ。とりあえず中学生以下としたが、これから話す内容を理解できない人間がいた場合、その人間は消えてもらうことになる可能性がある。失礼な物言いになってしまうが、ここにいる高校生以上の者で、自分の理解力や知識量に自信が無い人間は自己申告して欲しい」
 誰かが立ち上がって叫んだ。
「ちょっと君、消すってのはなんだ。冗談でも言っていい事と悪いことがあるぞ」
 すると、男は再びくちばしを口につけて「黙れ」と言った。すると、その人は押し黙ってしまった。
「ちょうどいい、先程から皆さんが不思議に思われているであろうこのくちばしは、『ソノウソホント』というもので、これを口につけて話したことは全部実現するという物だ。それが嘘で無いことをお見せしよう。君、そこで適当に踊ってみてくれ」
 その人が踊りだした。ざわめきが場を支配し始める。男は続けて「アントルシャ・ディスをやってくれ。君が知っている必要は無い」と言った。するとその人は信じられないくらい高く飛び上がり空中で足を10回交差させた。最早体育館は狂騒状態になった。僕も何が何だかわからない。と言うよりは、何処から僕は夢を見始めたのか、と真剣に考えていた。
「静かに」
 男が再び言った。皆が静かになった。勿論、男の口にはくちばしがついていた。
「ちなみに、アントルシャというのは、今ご覧になって理解した方も多いとは思うが、バレエにおいて、ジャンプした最中に簡単に言ってしまえば空中で足を交差させるステップのことで、ディスというのは10ということだ。ニジンスキーという伝説のバレエダンサーがこのアントルシャ・ディスをしてみせたそうだ。勿論私も実際に目の当たりにするのは今回が初めてのことだ。」
 男はくちばしを外しながら話し、自分の足がどうなったのか理解できずに目を白黒させている飛んだ(飛ばされた?)人に目をやった。
「決め付けるのは悪いが、当然彼にはそんな技を行ってみせる身体能力などありはしない。しかし、この『ソノウソホント』をつけて言った以上、必ず、それは起こらないわけにはいかない。これからお話しする我々の目的をご理解いただいた上で協力的な行動をとっていただけない方には、これをつけて、『消えろ』と言ってしまえば、必ずその対象は消えてしまう。皆さん、おわかりいただけたかな」
 僕は、自分に言い聞かせるように「これは夢だ」と何度も口の中で呟いた。そうに違いない、と。ほとんどの大人が立ち上がってこんにゃくを貰いに行っている。この町はこんなに馬鹿な大人ばっかりなんだな。どうりで毎日がつまらなくってしょうがないわけだ。
「おい、おい、ヒロシ」
 父さんが僕の肩を叩いていた。どうせならもっと強く叩いてくれよ。夢から早く覚めたいんだ。
「もしもってことがあるからな、良くわからないが父さんと母さんもあのこんにゃくとやらを貰いに行ってくるよ」
 父さんの顔が引きつっていた。それを聞いた僕の顔も引きつっていたかもな。なんて悪夢だ。
 でも、僕はもうすでに気がついていた。いつでも一番最悪な悪い夢は現実の中にあるってことを。強く爪を突きたてられた僕の太股から垂れた血が、床に落ちていた。
はてなブックマーク - ポケットの中(が原因)の戦争 3 | 16:21 | フィクション | comments(0) | trackbacks(1)
ポケットの中(が原因)の戦争 2
 あの日、僕は自分の部屋のテレビで野球を見ていた。ちょうどイニングが終わってテレビがコマーシャルに入った瞬間だったので、僕は何か新しいかたちの大掛かりなコマーシャルが目の前に流れているのか、と我が目を疑わずにはいられなかった。しかし、何度目を擦ってみても、部屋にいたはずが、確かに僕は体育館にいて、おまけに周りにはお父さんもお母さんも、近所の人も、とにかく知っている顔ばかりが集まっていた。「キャー」という叫び声が聞こえた、その方向を見ると、ノビタのクラスメイトであるミナモトシズカが裸でうずくまっていた。風呂にでも入っていたのだろう。気が付けば、シズカ以外の人たちも、めいめいが困惑の表情を浮かべ、大声や悲鳴も聞こえ始めたその時だった。
 「静かにしろ」
 その声には、不思議と全員を黙らせる力があった。見ると、その声の主は鳥のくちばしのような滑稽なものを口につけていた。軍服のようなものを着ており年齢は40代くらいに見える男だ。周りに同じ服を着た男たちを従えている。しかし、そのどう見ても可笑しいくちばしもどきを笑う人は誰一人としておらず、沈黙は依然として場を包み込んでいた。
 「突然このような理解できない事象に遭い、皆さんは大変困惑しておられることと思う。しかし、今しばらく静粛にされて、私の話を聞いていただきたい」
 男がくちばしもどきを外して話し始めた。すると、少年が1人立ち上がった。あれは確か、近所でも有名なガキ大将のゴウダタケシだ。
 「おじさんさー、師匠とかこんにゃくとか制服の話を聞いてくれとか言われてもわけがわかんねーよー。」
 すかさず腰巾着のホネカワスネオが立ち上がる。
 「もう、ジャイアンったら。師匠じゃなくて事象、こんにゃくじゃなくって困惑、制服じゃなくって静粛だよ」
 「バカヤロー、スネオ。ウチの店にはこんにゃくしかおいてないぞ、なんだよこんわくって」
 すると男が2人を手で制して、
 「いや、正に君の言うとおりこんにゃくが話に関係しているんだ」
 話しながら、男は再びくちばしを口に付ける。
 「中学生以下の子供たちは皆こちらに来て欲しい。そして、今から私の部下である彼らがこんにゃくを配るので、それを食べてくれ」
 すると、僕の足はその発言を訝しがる間もなく男の方に向かっていた。どう考えてもおかしいのに、僕は言われるがままに、男の部下たちが配ったこんにゃくを受け取り口に放り込んでいた。僕も、クラスメイトたちも、タケシもスネオもシズカも、誰1人として文句を言わずに、だ。
はてなブックマーク - ポケットの中(が原因)の戦争 2 | 01:31 | フィクション | comments(0) | trackbacks(0)
ポケットの中(が原因)の戦争 1
 いつものように退屈な朝をさらに憂鬱にさせられる。今日もまた、あの「私は頭が悪いんです」と声に出して歩いているような間抜けな喋り声のノビノビタに出くわしてしまった。あのドラエモンの野郎も一緒だ。
「おはよー。ヒロシせんぱ〜い」
 悪意というもの存在をおそらく知らないであろう人懐っこい声で、中等部の学生でほとんど交流の無い僕に話しかけてくる。
「おはよう。ドラエモンも一緒なんだね」
「おはよう、ヒロシくん」
 こいつの声も癪に障ってしょうがない。この毛虫が丸一日カラオケを歌い続けて喉が潰れたような声はどうだ。しかし、ドラエモン監視委員会がきっとこの様子も監視しているに違いないので、僕は忌々しい思いをかみ殺して挨拶をかわす。

 信じられない話だが、22世紀の世界は、アメリカと中国が覇権を争い、より世界情勢は混沌としており、日本は経済が破綻する寸前で、治安は悪化し、東京の中心部はまるでブエノスアイレスやリオデジャネイロのスラム街のようになってしまっているらしい。
 そんな先行きに希望が全く抱けない日本に突如現れた天才科学者セワシ博士が、「透明マント」というその名の通り被ると透明になるマントを開発し、22世紀の化学の粋を結集した数々の道具を、僕らには理解できない未知の四次元に繋がっているポケットに詰め込んだ「Domestic Radiant Existence, Mend a Our Nation」とコードネームを名付けられたロボットを透明マントで隠して、未来の世界ではご法度中のご法度らしいタイムスリップで現代の日本に送り込み、その頭文字をとってドラエモンと名付けられたロボットは、直訳すると「私たちの国を正常にする、日本の光を放つ存在」みたいな大仰な名前で、現代の日本を未来の化学の力で輝かしい未来に導くためにやってきた。
 そんなドラエモンが身を隠す先として選ばれたのが現代の日本で一番頭が悪い子供らしいノビノビタの家で、ノビタは突然机の中から現れた謎のロボットと変装したセワシ博士の、自分はノビタの孫で、ノビタの所為で今の自分のお小遣いが少ないから、ノビタの生活を正すために未来のお世話ロボットを送り込んだ、という嘘をまんまと信じてしまった。そして両親をノビタと一緒に22世紀の日本に招待し、両親にはドラエモンを派遣した本当の理由を説明し納得させたのだという。いや、本当は脅迫されたのかもしれない。断ることは許されない、と。
 そして、ドラエモンがノビ家に送り込まれてきた日の夜、この町に住む全ての人間が学校に集められた。正確には、気が付いたときには家の居間でテレビを見ていたはずの僕が、そしておそらくは同じように、全ての町民が学校の体育館にいたのだった。たった1人の例外、部屋で深い眠りについていたノビノビタを除いて。
はてなブックマーク - ポケットの中(が原因)の戦争 1 | 21:33 | フィクション | comments(0) | trackbacks(0)
OVER THE WORLD
とある誕生日の話。

僕は自転車をこいで車道を走っていた。寒いけど心はそれなりにうきうきしている。ここ数年か、誕生日というものをそれなりに能動的に受け止められるようになった。昔は我が家では誕生日だからといって何かあるわけではなく、ただの死ぬのに1歳近づく日でしかなかった。何より僕は大人になりなくなかったのだ。

交差点が近づいて、歩行者信号が点滅する。混雑している車線の左折しようとする車の様子を見ながらペダルを強く踏む。車道を走っている僕の自転車はあくまで車両であり、しかし、車に乗っている人たちには邪魔な自転車でしかなく、出来るだけスマートに、しかし急いで車両用信号が赤になるまでにどうにか交差点を横断する。交差点を過ぎると華やかな銀座の街に一気に入り込んだようになる。左に折れる小さな道がすぐに迫っている。ここはなぜか良く車が曲がりいつもごちゃついているのでスピードを落として走る。僕はさらに真っ直ぐ、銀座の奥を目指して走っている。いつも以上に車が進まないな、と思い右隣の車線も停滞しているのを確認して車線の右に出て、車間を通って真っ直ぐ進もうとしたその時だった。

人が倒れていた。
続きを読む >>
はてなブックマーク - OVER THE WORLD | 01:55 | フィクション | comments(0) | trackbacks(0)
ポテチトップスその1
俺は多分馬鹿ばっかりの家庭に生まれ育った。

というか、俺自身もそうとうの馬鹿なのだけど、記憶力だけは物凄く良くって、後々信頼できる人たちが俺の家族の話を聞く度大笑いするので、これはどうもおかしいみたいだ、と段々気が付いてきた、という次第だ。正直昔は皆少し頭が弱いなあ程度にしか思っていなかった。
続きを読む >>
はてなブックマーク - ポテチトップスその1 | 19:05 | フィクション | comments(0) | trackbacks(0)
さして若くもないウェルテルの悩み
仕事をしていて、凄いアニメ声のお客様がいたんだ。もの凄くね。僕ははっきり言ってアニメ声は苦手なんだ。しかし、もって生まれたものに対して嫌悪を抱いては始まらないだろう?
例えばロリコンに生まれてしまった男がいたとしよう。彼が実際に幼女に性的な悪戯をしてしまったら、それは断罪されるべきだ。しかし、法的にも道義的にも許されない対象に対して性的興奮を抱く身体に生まれてしまった彼が、少し澱んだ眼で歩いている可愛い女子小学生を見てしまう、そんな程度なら、そのシチュエーションはそりゃあ気持ちの良いものではないが、僕は決してそれを蔑んだりはしない。むしろ普通の性的嗜好に生まれることの出来た自分の幸運に感謝するさ。ちょっときつく縛った縄の痕が好きな程度のね。
だから僕は最初は普通に我慢していたんだ。でもね、そいつは天然じゃなかった。計算だったんだ。語尾に「にゃー」とか「ナリー」とかつけてるんだよ。おいおい、ここが戦場だったらテメエとっくに俺にウォールオブジェリコ(ただの逆エビ固め)くらってるぞコラ?お前の何処に猫の耳があるんだボケ?お前の何処がコロ助だゴラァ!!ってもう僕はむかついてむかついてしょうがなくってね。挙句の果てにそいっつったら他の人に振られた時に答えに窮して「うぐぅ」だってよ。「うぐぅ」って確かエロゲーのヒロインの口癖とかだろ?おいおい勘弁してくれよ?ってさすがに洗い物をする手も止まったね。というか同僚の人たちも気の毒だと思わないかい?俺らがそんなので萌えると思ってるの?とかうざったく思っている人が絶対いると思うんだがねえ。逆に彼女が男への媚びが全くゼロで、完全に自分が好きなだけでそう喋っているっていうんだったらそれはそれで大したものだけどね。
でも僕は、お店に来てくださっているお客様には本当に感謝しているし、出来るだけステキな思いをして返っていただきたい。なのに僕がお客様に対して怒りの感情を抱いているのは悲しいことだよね。だから僕はちょっとした魔法を自分にかけるのさ。僕はアニメ声が好きだったんじゃなかったかな?って軽い自己催眠をね。好きって思うのはさすがに気が引けるのでその程度でさ。そしてちょっとした押し問答が始まるんだ。

僕はアニメ声が好きじゃなかったっけ?→いや、でも今こんなに嫌悪感を抱いていたじゃないか。→でもそんなことないんじゃないか?→ほら、だんだんそんなに腹が立たなくなってきたんじゃないか?→いや、でもやっぱり腹が立つ気がするんだけど。

そんな感じで。その程度でいいんだ。明確な怒りさえ己の内に宿らなければ、その内そのお客様も帰られて1日の仕事も終わる。そうしてからアニメ声にむかついていたことに気付いたところで怒りをぶつける対象のお客様はもういないんだから。
僕は、仕事中に限らず、何かよろしくない感情を抱いてしまいそうなときは、無理矢理その気持ちを押し込めるようなことはしないんだ。だって怒りって即物的なものだろう?自分の素が出るんだ。自分の素直なところがどうしようもなく怒りを抱いてしまうってことは、もうそれはどう深く考えても自分にとっては怒りを抱くものでしかないんだよ、よっぽどの誤解で無い限り。だから僕はその感情がその後で自分にとって不都合なものになりそうなときは、それを我慢するのではなくって、そもそもそうじゃないんじゃないか?って自分を勘違いさせる。これは結構効果的な鎮火方法だと思うんだ。

ただ、これにも問題があってね。これをあんまりにも頻繁に続けていると、時々本当の自分がどれかわからなくなってしまうんだ。余りにもたくさんの自分がそこにいて。
…なあ、小林くん。もし僕が怪人二十面相だったらどうする?
はてなブックマーク - さして若くもないウェルテルの悩み | 03:52 | フィクション | comments(0) | trackbacks(0)